幼少期
生まれて初めて大勢の人前で歌声を披露したのは、母に同行して参加した婦人会日帰り旅行の昼食会だった。確か4、5歳の頃だったと思う。
余興で私は、当時スターだったいわゆる「御三家」の一人、西郷輝彦の『星のフラメンコ』を全くの準備なしに歌ったことを覚えている。ちっちゃな子が頑張ったということで大いなる称賛を送るという、人として当たり前の優しさは今も昔も変わらないが、きっとそのときの体験が根底にあって「自分は歌が得意なんだ」と自信を得たのかもしれない。
9歳上の姉がいる。彼女は高校受験勉強そっちのけでグループサウンズに熱中していた。特に、人気GSのテンプターズにいたショーケンこと萩原健一のファンだった。
私はまだ小学校に上がる前だった。ある日姉の友人がわが家へ遊びに来て、「みっちゃんはグループサウンズで誰が好き?」と尋ねてきた。私は特に誰のファンでもなかったのだが何か答えなければならないと思い、とっさに「タロー」と答えた。そう、ザ・タイガースのジュリーこと沢田研二ではなく、タローこと森本太郎である。この頃からあまのじゃく精神が育っていたようである。
後日、姉が中学校から帰宅して私の前に大量の森本太郎の雑誌切り抜きをどさっと置いてこう言った。
「あんたが好きだって言ったから、○○ちゃんあんたのために集めてくれたんだからね」
別に私そんなにタローが好きってわけでもないのに…。どうしようこんなに面倒くさいことさせて…。本当に申し訳ないなと思ったことを半世紀以上経った今でも思い出す。
小学生時代
母が意識低い系母親だったため、私は一切習い事をさせてもらえなかった。
学校から帰ってきたらランドセルを玄関にほおり投げて、家の前の道路や空き地、または友達の誰かの家で遊び、帰宅したら部屋で宿題をやりながら『ベストテン北海道』を聴くという子供生活を送っていた。
『ベストテン北海道』はHBCラジオのローカル番組で、洋楽・邦楽をいっしょくたにしたランキング番組だった。その影響で外国語で歌われている曲に興味を持つ。当時はシルヴィ・バルタンやミッシェル・ポルナレフなどのフレンチポップス全盛期だった。アメリカンポップスも好きになったことから英語に興味を持ち、小6でラジオの『基礎英語』を勉強し始める。自分の意思で始めたこのコスパ最強の英語1年先取り学習がアドバンテージとなったのか、中学に入学してからの英語の成績は好調だった。
中学時代
中2のとき生徒会役員を務める。
毎日放課後、生徒会室に集まってはロック談義に花を咲かせていた。
Queenはファーストアルバムから、あの『Bohemian Rhapsody』が入っている4枚目の『オペラ座の夜』までレコードを持っていて擦り切れるほど聴いていたものだが、『華麗なるレース』であまりにもポップな方向へ路線変更したために一気にクイーン熱は醒めた。
というより、生徒会の仲間たちの影響で様々なロック系アーティストの音楽を聴くようになり、Led Zeppelinなど他のバンドの方に興味が向いたのだった。
年齢を重ねてからあらためてツェッペリンを聴くと、『Since I’ve Been Loving You』(邦題『貴方を愛し続けて』)のようなブルース色の強い曲が心に沁みる。
中学校の生徒会室で。後ろの掃除道具入れ扉に”DEEP PURPLE”や”JOHNNY WINTER”などの落書きがある。鞄に立てかけてあるLPレコードの袋は札幌の玉光堂という老舗レコード店のもの。多くの学生たちはLPレコードをこの玉光堂袋に入れて、貸し借りのために堂々と学校に持ってきていた。
高校時代
部活は軽音部への憧れを抱きながら、女子なのにピアノが弾けないというコンプレックスから入部に至らず、6人集めるのがやっとという弱小女子バレーボール部で部長を務める。
1学年450名の中で、常に300番台という定(低?)位置をキープ。
英語の音読の瞬間だけ存在感を発揮する。
浪人は絶対させてもらえない家庭事情だったため、早い段階で近所の国立大学への進学を断念する。
文化祭の模擬店で喫茶店を開き、BGMのテープづくりに全精力を注ぐ。
この頃すでにロック全般への熱は冷め、Boz ScaggsなどのAORやEW&Fなどのブラックコンテンポラリーミュージック(死語・笑)へ興味が移行。
3年生のとき、課内クラブで「ポピュラークラブ」なるものを選択した。音楽室で、持ち回りで自分の気に入ってるLPレコードをただかけるだけのクラブだった。格好の自習時間となっていたが、今も存続しているのか大いに興味がある。
高2修学旅行のとき、青函連絡船の上で。行先は京都・奈良。
短大時代
別に英文学に興味など全く無かったが、ここの英文科を出れば大手全国企業の支店に正社員OLとして採用されるだろうという目論見のみで進学先を決める。
近所の国立大学のジャズ研にヴォーカル志願で入部を試みるも、「ヴォーカルは要らない」的な扱いを受け、ライブなどのイベント時のみ下働きで駆り出される。
仕方がないので、Sarah Vaughanなどの女性ジャズヴォーカリストの名盤アルバムを貸レコード屋で借りてきて、自宅で我流で猛練習をした。ライブを控えているとか、そんな目標など皆無だったのに。
大学教授秘書時代
結局、大手全国企業の正社員OLになるという目論見は達成されず、国家公務員試験を受けて国立大学の医学部と工学部で通算6年間教授秘書を務める。
仕事がラクだったので、この頃英検1級の受験勉強に全集中する。おそらく人生で一番真面目に勉強をしていた時期だと思う。
工学部の飲み会では中森明菜の『DESIRE』をよく歌っていた。それが評価されたのか、研究室の大学院生数人でバービーボーイズのコピーバンドを組むから、ヴォーカルをやってくれないかと誘われる。スタジオ練習を数回やったが、私の諸事情でバンドを脱退する。
以来約30年間、音楽活動というものにはカラオケも含めて縁がない生活を送る。
医学部教授秘書時代。
時は流れて・・・
フリーランスの産業翻訳者兼通訳ガイドとして忙しくも充実した生活を送っていた2018年、突然ガンを宣告される。
幸い早期発見だったため、手術と抗がん剤治療でほぼ寛解し、今は経過観察中である。
しかし、ガンを宣告されたときのあの絶望感は、経験した者にしかわからない。
副作用で髪の毛が抜ける抗がん剤を4クール投与され、まつ毛もまゆ毛も無かったとき。
私はそれまで、人から誘われたら断れない性格で、あまり得意でもない(むしろ下手くそこの上ない)種類のスポーツをやめる理由がないからとダラダラと続けていたりしていた。しかしこの人生の一大事を機に、スポーツに限らず、やっていて個人的に充実感を得られない活動をすべて断捨離した。
そうやって捻出した時間を、すべて歌に向けようと決心した。
きちんとボイストレーニングに通い、複数の良き師に恵まれ、音楽好きの集まるセッションの雰囲気を楽しみ、現在は充実した日々を送っている。
あの絶望感を味わわなかったら、ジャズシンガー佐々木美智代は存在しなかった。
Photo by FotoLore 柳本史歩