『Mittyの音楽室』へお越しいただきありがとうございます。
このブログは、私が物心ついた頃から耳にしてきた洋楽・邦楽のポピュラー音楽について、当時の思い出を交えながらエッセイ仕立てで書いていくものです。
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私は現在ヴォーカリストとして主にスタンダードジャズを唄っているが、幼い頃から自称“プロ・リスナー”として流行の洋邦楽を大量にいろいろ聴いてきたことで耳が肥えたと自負しており、それが自ら歌う際の引き出しを増やしてきたのではないかと勝手に分析している。
ちなみに、楽器経験は小学時代の音楽授業での打楽器(カスタネット、鈴、タンバリン、トライアングル)、ハーモニカ、ソプラノリコーダー、そして中学時代のアルトリコーダー以外皆無で、高校に至ってはそもそも芸術選択科目は「美術」だった。
小学校5年生のとき、私はどういうわけかクラリネットに憧れ、親に「中学に入ったら吹奏楽部で吹きたいから買って」と懇願したのだが、両親は最後まで私の願いを叶えてくれなかった。
20年以上前に他界した母は、晩年私に「美智代が小学校のとき、クラリネットを買ってやれなかったのが今でも申し訳なく思っている。あの頃は生活が苦しくてね。本当にごめんね。」と話していた。
私はクラリネットは手に入れることができなかったが、そのすぐあとに「英語」という人生の相棒を見つけることができ、すべての関心はそちらに向いていったので、そのことで母を恨んだりは全くしていなかった。
私は自称“ながら族上級者”でもあり、自宅で勉強するときはラジオがお友達だった。
HBCラジオの、ミスターデーブマンやジャンボ秀克氏がDJを務めていたランキング番組を欠かさず聴き、親がどこかに出かけたら、その隙をねらってドキドキしながらリクエスト電話をかけまくった。自分の名前が呼ばれたときは至福の喜びだった。
蛇足だが、短大時代にススキノの高級喫茶店「リチャードⅢ世」でウェートレスのアルバイトをしていたとき、ミスターデーブマンが客として来店したことがあった。マネージャーが監視しているのは意識していたが、しっかり握手してもらった。
この喫茶店は、各テーブルにロココ調の電話を設置することができたので、近所の極道さんたちがシノギ(おそらく「〇ミ行為」)の場として使っていたらしかった。
ある日、同じ中学で同じ学年だった、当時は美人の誉れ高かった女子がそういう人たちの一人に連れられて来店したことがあった。中学時代は別に不良とかツッパリとかではなかった子なので、私は驚いた。向こうも私に気づき、なんとも言えない雰囲気になった。彼女に一体何があったのだろう。今は幸せに暮らしているだろうか。。
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次回のブログから、いよいよ昔聴いていた昭和40~60年代歌謡曲とニューミュージック、そして1960~80年代洋楽ポップス、ロックその他について書いていきます。
お楽しみに。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
佐々木美智代
(ジャズシンガー、草の根音楽評論家)
いいウェブサイトができましたね。
このブログ、うわっ、めっちゃ面白そう!
次回以降も楽しみにしてま〜す。(^^)/
Mieさん
コメント第1号、ありがとうございます。
読んでいただけて嬉しいです。